3/11 人は変わる生き物
今日で9年目をむかえましたね。
Youtubeなどで流れる津波の画像をみると、本当に恐ろしい光景が脳裏に焼き付きます。
私は東日本大震災は、東京で経験しました。
東北の方々ほど大きな被害はありませんでしたが、阪神大震災を経験しているので、その時の恐怖が蘇ってきました。
多くの方が亡くなりました。
身内や友人を亡くされた方、生活を追われた方には決して忘れられない出来事です。
私も忘れてはいけない、と思い生きてきました。
ですが、人は変わるものだと、思いもします。
阪神大震災のほんの数年後、私は友人を亡くしました。
90年代も終わりをむかえようとしていた年です。
震災の後、まだ仮設住宅が並び、大きな建物が建設中。復興に走り、神戸は前を向いている時でした。
友人は、突然亡くなりました。
事故か、自殺か、事件か。分からないまま警察には変死として処理されました。
その方の死は、私の時間を止めました。
私はその方を、亡くなる直前まで、恨んでいたんです。
とても憎くて、いなくなって欲しい。そう願っていました。
最後の電話で「あなたみたいな人間のクズはいなくなった方がいい」と言いました。
その2週間後、いなくなりました。本当に。
その方の名誉のために、何があったかは書きません。
私の心はそこで壊れました。時間が止まり、生きるのを忘れたように感じました。
いなくなって欲しかった人がいなくなって、喜びが残るわけではありませんでした。
虚しさと、悲しさと、怒りと、それとともに解放されたという想いと。
様々な感情が秒単位で現れ、生きている状態がわからなくなりました。
毎日、なぜ?と自問自答する。
毎日、その方の夢を見る。
笑っている自分の裏で、どうしてこんな風に笑えるのか?と感じている自分がいる。
そんな日々が続きました。
私は生きていていいのか?死んだほうがいいんじゃないか?
そんな質問がいつも心の中で浮かんでいました。
生きづらくて、しんどくて、ただ、そんな風になっている自分を見せたくなくって。
死を目の当たりにして、死の恐怖と、生きることの辛さに苛まされていました。
その方の死まで、死についてこんなにも考えることはなかった。
仕事を見つけ、それに専念している風に自分をもっていったけど、心の中は虚しさでいっぱいでした。
こんな人間が何をやっても無駄だと。
そんな風にしか、心の中では思えなかった。
それから数年、そんな状態が続きました。
ですが、心の中で感情は少しずつ変化します。
私は、それでも生きたい。
変わりたい。
当時は、スマホもインターネットすら普及していない時代。
情報は、テレビか本でしか得られない時でした。
本当にたまたま目に留まったのだと思います。
ただ、潜在的に自分が欲していたのだ、とも思う。
図書館で、五木寛之さんの本を借りました。
それは、仏教の教えについて書いていた本です。
仏教の哲学や思想を、分かりやすく解説していました。
そこに、私が欲しかった答えが書いていました。
死を想うこと、それは生を想うこと。死の上に生が成り立っていると。
諸行無常。すべては移り変わり、絶えず変化すると。
少しだけ、生きていて良いと言われた気がしました。
あれから、もう20年以上の時が流れました。
あの時の気持ち、あの人は、私の中で成長し、変化し、生きています。
どうして亡くなったのか?
もう答えを求めることはありません。
もちろん、本当はもっと生きたかったのかもしれません。
ですが、その現実は叶うことはない。
だから、自分の中で、形を変えて生きてもらうこと。
20年経って、ようやくその気持ちにたどり着くことができました。
色んなかたちで、人や動物、そして物すらも、いつか物理的に終わりを迎える時がきます。
その存在を忘れない。ということは、決してその時に止まったままではないと、私は感じます。
亡くなった方々の気持ちは分かりません。
ですが自分が変わるように、その方も変わっていくのだと、私は思っています。
そして、いつか自分自身も、物理的にいなくなる日がきます。
その時まで、私の中で、あの方は変化し、生き続けるのだと思います。